大人は判ってくれない (lacoアーカイブズ)

前回書いたことの続きとして。
岡崎京子に「好き好き大嫌い」という本があり、エヴァンゲリオンR.D.レインからの影響があるようなことを聞いてなぜ?と驚いて書き留めたエントリでしたが、そこで野火ノビタの評論集を。

大人は判ってくれない―野火ノビタ批評集成

大人は判ってくれない―野火ノビタ批評集成

女性が書いたやおい論、というだけでも類書がほとんどなく、一読の価値があります。*1
斎藤環氏が
フレーム憑き―視ることと症候」でこの本を紹介していますが、それもこの本の解説に入っています。ここで斎藤氏は、性愛と欲望の原理に帰結してしまう「転移」「投影」「同一化」以外に、「関係」を記述する言葉が精神分析に決定に不足しており、それは常に「男の精神分析」でしかありえなかったといいます。

以前「おんなのこ主義」「アンチオトメチック」について記しましたが、いかに少女について「汚染されたもの」として距離をとろうとしても、男である限りは欺瞞となってしまうことは避けられませんでした。私にとっての「萌え」は、萌え要素に分解できるようなそれではなく、それを所有しようとすることで失われるようないとおしさにちょっと似ているように思えます。

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

未読ですが、美少女と萌えについて書かれた本として興味深い。

私の萌え体験は、小学六年生に載っていた「坂道のぼれ」の広告、新井素子のデビュー作の写真、若きソンタグの写真(これは大人の女性ですが私が萌えを考える上でははずせないもののひとつ)から始まっていますが、大学時代などロリコンマンガに萌えられないので自分が萌えるキャラクターの創出を試みてはいました。「うる星やつら」のしのぶや「さすがの猿飛」の魔子ちゃん、「めぞん一刻」の響子さんにも萌えに近い感覚を感じたような。

ところで前々から疑問に思うのは、ショタコンの語源がなぜ「鉄人28号」までさかのぼらなければならないのかと言うことで、同人誌の鉄人のパロディがあったのがショタの起源というふうにしか考えがたいのですがどうなんでしょうか。

大学時代に、僕は2次コンですと言っていた後輩がいました。生身の女の子とは距離をとりたかったのでしょうか。実は自分も同じですね。恋愛すれば性的な関係に行き着くことが可能な年齢ですから、近寄ってくる女性が無防備すぎるのが、それでいいのか という感じでうまくつきあえませんで、ただみんな嫌いなタイプではなかった。親切にすればするほど人を傷つけるジレンマに悩んでいた頃で(繊細な人とのつき合いが多かった)、自分がプレイボーイならふたまた平気でかけたりしていたかも知れません。

*1:女性によるやおい論はけっこうありました。こういうポカはよくやりますが、エヴァってもう十年前なんですよね