日本近代少女漫画史(戦前編)(lacopen's new note 2006年記事)

明治期 竹久夢二のデビューは雑誌にコマ絵を描くことから始まっているが、中に複数コマ構成(4コマと記憶するが曖昧)の漫画仕立てのものがある(発表年不明)。まだ無名時代か。美人画で人気を博す前のもので少女マンガと関係は特にない。

1919(大正8)年 「少女の友」1月号に川端龍子作「友子の空想旅行双六」が付録につく。振出しから上りまでが物語仕立てとなっており、双六として必然的にコマを使うため、図らずもコミックストリップの形式になっている。しかもコマ数が多く波瀾万丈の展開、コマの不確定性など奇しくも少女マンガ形式と似たレイアウトに共通性が見いだされる。なおこの当時「漫画」という言葉はまだ人口に膾炙しておらず「ポンチ」と呼ばれていた。餅がふくらんで飛行機になり主人公はこれにのって冒険の旅に出て、空中から一転して竜宮城を経て最後にお菓子の島にたどり着く。


1923(大正12)年1月のアサヒグラフ創刊号に「正チャンの冒険」連載開始。9月に関東大震災発生。アサヒグラフ廃刊に伴い朝日新聞朝刊に連載を移す。広く人気を博し、ちなみに正チャン帽は商品化された。子どもが主人公の冒険漫画として、吹き出しの導入など新しい漫画表現を世に知らしめた。

1924(大正13)年に長崎拔天が時事新報に「ひとり娘のひね子さん」を連載開始、翌年まで続く。4コマ形式の作品。途中にはひね子さんが海水浴を楽しみに出かける回などもある。拔天の師匠であった北澤楽天は女権運動を批判したが、拔天の描く主人公は深窓の令嬢らしく控えめに振る舞いながらも楽天の「とんだはね子嬢」のように風刺の対象として描かれている感じではない。

子ども漫画の第一人者だった宮尾しげをは昭和にはいると少女雑誌でも漫画の連載を数多く試みている。ほかに井元水明、麻生豊などの名が見られる。「漫画」の語が流行し、マスコミによる多用などから、やがて定着する。