戦後日本マンガの大きな眼の祖は、中原淳一と松本かつぢではない

漫棚通信さんの今日のエントリで、日本マンガの特徴である「大きな眼」について考察されておりました。
大きな眼といえば皆さん少女マンガを思い出すようです。実際、いまの低年齢向けの少女マンガ雑誌で描かれる女の子の眼は
異常なほど大きいことは一目瞭然。
この記事では、石子順造佐藤忠男が少女マンガを論じた文章と、『手塚治虫の「かわいい」論』のエントリへのリンクを
引用して、そこから米沢嘉博『戦後少女マンガ史』をひいて、戦後日本マンガの大きな眼の祖は、中原淳一松本かつぢであると
しています(それ以前の竹久夢二蕗谷虹児にも触れています)。

巨大眼少女たちは西洋人のコピーとして登場したのではなさそうです。

ここは佐藤忠男の言うとおり、かわいい=幼児性を追求することでしだいに眼が巨大になり、
それが結果として「西洋的な感触と結びついて印象づけられた」というところなのでしょう。

結論の文章を引用しましたが、これははっきりと間違っていると断言します。

なぜならば、淳一、かつぢ、夢二、虹児の誰一人として、戦前に描いた絵では幼児性などまったく追求していないからです。
彼らは確かに瞳を強調しましたが、それはあくまで少女と女性向けを意識したものであって、幼児向けを意識した絵柄ではないのです。
そんなことはない、クルミちゃんは幼いではないかという反論が予想されますが、クルミちゃんが本格的に幼児化するのは
戦後になってからであり、戦前の設定はだいたい小学生(最初の頃は高等科、つまりいまの中学生くらいでしょう)、一枚絵で描くときは瞳が大きくなりますが、戦前に連載されていた漫画のくるみちゃんは基本的に点目で描かれていますので、マンガの大きな眼の元祖とは言えません。

戦前に漫画に描かれた女性主人公のうち一番目が大きいのはたぶんベティ・ブープでしょう。日本では昭和初期にベティさんが大ブームになっています。きいちのぬりえで有名な蔦谷喜一氏はウィキペディアによれば昭和15年頃フジヲの名でぬりえを描き始め、
戦後まもなく「きいち」を名乗ってぬりえブームを巻き起こしたということですが、他にもぬりえ作家が戦前から戦後にかけて活動しており、戦前から活動していた中では「たけし」のぬりえが人気を博していました(ただし戦前の知名度については未確認)。この「たけし」は稲津寅雄という方で、検索で調べた限りでは昭和9年に塗り絵を描き始め戦前から人気が出て、昭和25年に廃業して看板描きに転進したそうです。そしてたけしがぬりえを描きはじめて最初にモデルとしたのがベティ・ブープということです。きいちのぬりえとたけしのぬりえを比べると、たけしのほうが端正な顔つきで、きいちのちょっとキッチュなクセのある絵のほうがより戦後はじめの少女漫画のパブリックイメージに近いといえるでしょう。

さらに19世紀からヨーロッパの令嬢たちの間で流行したビスク・ドールがあります。アンティーク・ドールといえばわかるでしょうか。ジュモーの工房の名前は私もなぜか覚えていましたが、ネットを調べた限りでは、もともと貴婦人のマスコットだったのが上流階級の少女たちの遊び相手になり、量産化とともに1920年頃には子ども用玩具に変わって行き、セルロイド製の量産品の登場によって1930年頃に製造されなくなったとのこと。ベティ・ブープのキャラクターは人形っぽいと思うのですがいかがでしょうか。

ちなみに松本かつぢ蔦谷喜一はともに川端画学校に通っていたようですが、かつぢは半年ほど通っただけらしいので独学に近いのでしょう。川端画学校出身の漫画家に小島功がいます。なお川端画学校は川端玉章高橋由一に師事した日本画家)が創設した私立美術学校で、川端龍子と直接の関係はないようです。

淳一、かつぢが幼児性を追求していないと断言するのは、まずこの二人を本格的にデビューさせたのが当時の『少女の友』の主筆(いまの雑誌で言えば編集人兼発行人でしょうか。最高責任者である主筆の役職の下に編集長の職があるようです)だった内山基だったことです。私が調べた限りにおいて、内山は戦時中の困難な時期に、女性が広い視野と教養を備えることを訴えましたが、それこそが日本が国際社会で地位を保つために重要だという考えをもっていたのではないかと思われるのです。内山はつまり女性が銃後で戦争に進んで協力すれば歯止めが利かなくなり、もしアメリカと戦争をしたら日本は確実に負ける、と考えていたふしがあるのです。空気は銃後から腐るのです。

『少女の友』は日本の雑誌史上きわめてユニークな雑誌であり、昭和17年に言論統制とパルプの節約のため出版社と雑誌が統廃合された際に『少女画報』を吸収し、分類としては青年誌の枠で終戦まで休刊せず戦後を迎えています。戦争が総力戦になってからは言論統制により編集後記も軍国調になってしまいますが、そこにはむしろ絶望感があふれており、冷静な時局分析の記事を載せるなどの工夫でぎりぎりまで抵抗を続けて、戦意高揚をあおるような記事を載せない姿勢を保っていました。

ところで主に印刷物に載せる女性を描いたデザイン画を抒情画と呼びますが、『少女の友』は中原淳一松本かつぢの二人のスターの描く女性画を「叙情画」と名づけているようです。自分は確認していませんが、わざと「叙情」と書いて統一した可能性があります。もし抒情画に詳しい方がいらっしゃったら確認してみてほしいと思います。

中原淳一の絵は上目遣いでまつげに特徴があり不健康といわれ戦前に描くことが禁じられましたが、戦後の中原は独特のつりあがるような大きな瞳を描くようになります。これはあごを極端に引いて顔が下に向きながら、目はまっすぐ正面を見ているというデフォルメされた正面顔をイメージしてみると良いでしょう。戦後のかつぢの漫画は童画を描くようになったのと並行してクルミちゃんのプロポーションが2頭身を切るなど幼児化(?−年齢不詳化)しますが、このような特徴はむしろGHQの占領下において起こった現象の一つだと考えられます。日本は女性雑誌は非常に発達しており、戦前の女性の意識はもしかすると女を子ども扱いする男尊女卑の(一神教?)社会に比べて平均的にかなり高かった可能性があると思います(特に少女と呼ばれる年齢層で)。しかし戦前の日本は日露戦争に勝利して反戦意識を持つものは少数にすぎず、厭戦的な多数派も抵抗できずに時局に流されたのでしょう。わたしはかわいいの誕生は戦後に軍隊を放棄したGHQの占領下で育まれた可能性が高いと思っています。しかし戦後憲法のねじれはそれをもたらしたアメリカ及び西洋近代の理想と現実のねじれ、起草したアメリカの矛盾として逆手に取ったほうがいいと思われるのです。
そして日本マンガの「大きな眼」はこれまで述べたように海外からわたってきたもので、それは少なくとも戦後間もないぬりえブームに発してクルミちゃんから淳一の弟子の内藤ルネ、そして手塚治虫等によって広まったと考えられますが、おそらく戦後に普及した「かわいい」は、戦後の困難をくぐり抜けながらポケモンやキティちゃんのように単なる幼児化とはならずに世界に広まっています。これを日本の知恵として捉えなおしてみるという試みがあってもいいのではないでしょうか。


追記

戦前に描かれたクルミちゃんにも小学生とは思えない幼い姿の絵があるという指摘を受けると思うので、ちょっとだけ補足しておきます。
戦局が悪化して軍部の意向で叙情画が描けなくなってくると、絵のうまい画家は戦争画を描かされたりプロパガンダ映画を作るための動画スタジオに動員されたりするようになります。
藤田嗣治の有名な「アッツ島玉砕」のように死屍累々のたぶんものすごい皮肉を込めた絵が軍部で評判を呼んだりしたわけです。蕗谷虹児戦争画を描いていますがどこが戦意高揚なのかわからないような地味な作品を書いています。
しかしながら童画に関しては最後のパラダイスというか、なぜかかなり自由に描けたようで、虹児が講談社の絵本に描いた「アラビアンナイト」などは戦争が泥沼化している時代によくこんな美しい絵本が描けたものだと驚いてしまうようなものです。松本かつぢの場合は常に『少女の友』の仕事を最優先としながら仕事を選んだと思いますが、おそらくは少女向けの叙情画が描けなくなる可能性を見越してディズニーを手本にした童画的な作品を試みていました。お目目パッチリの幼い女の子が描かれた便箋などが残っていますが、ディズニーの影響がうかがえる動物が一緒に描かれているなどからこのシリーズに含まれると考えられます。ここで描かれた女の子の絵柄は幼年向けのぬりえや着せ替え遊びなどで描かれるひとつの典型となって、よく真似されて広まったようです。