ネット時代の利便と不自由

前回のエントリで紹介した「ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち」を読んで一番感心したのは、第4章の「ケータイが恋愛を変えた」で、
ドメスティックバイオレンスの問題を論じている部分だった。

この章にはいる前に、著者は次のように指摘している。
「尾崎(豊)の一九八〇年代には反抗すべき敵として、権威や大人の社会が存在したのだが、浜崎(あゆみ)の一九九〇年代末においては、敵は社会ではなく自分の内面であるという具合に変化したのである。現代のヤンキーとは社会に反抗する存在ではないのだ。」(147ページ)
「反抗すべき敵を社会のような外部に定めることができず、みずからの内面に敵を見つけていく姿というのは、ケータイ小説の主人公の生き方とオーバーラップするものである。レイプや流産、恋人の死といった不幸に直面しながらも、その不幸を嘆くのではなく、すべて自分の内面に抱え込む。そして、何かに反抗するということはなく、常に自分の内面に敵を設定し、最後は前を向いて生きていくことを決意する。これらは、『恋空』をはじめとする多くのケータイ小説で描かれる共通の世界観だ。」(153ページ)

紡木たくの「ホットロード」では、主人公の少女はヤンキーという言葉が定着する前の不良少女で、しかも異常なまでに繊細で内向的なキャラクターであり、反抗のそぶりは見せるものの最終的には彼女を監視しつつ保護する教師の言葉に屈するように記憶している。次に描かれた長編「瞬きもせず」は地方都市でのあまりにも地味な生活と恋愛が描かれていたのではなかっただろうか。自分でも内容を良く覚えていないが、この連載当時地方から東京に修学旅行に来ていた高校生の純朴そうな男女混合のグループがこのマンガを話題にして盛り上がっていたのを見て驚いたことがあった。このマンガは私の予想に反して非常に売れた。私が感じたのは、紡木たくは「ホットロード」までの作品で自分が描きたかったことを描き尽くしてしまい、「瞬きもせず」では作者もはや編集部の望むとおりに坦々と描いている抜け殻のように映ったのである。私には紡木自身が漫画家として描くことを失った不幸を内面に抱え込んだように見えたのだ。当時少女マンガファンのほとんどがいくえみ綾紡木たくのパクリだと糾弾していたが、いくえみには物語を描き続けられる才能あるいは意思があって紡木にはそれが欠けていると感じたのだった。いくえみには恋愛物語にバリエーションを与える力があるが、紡木の描く恋愛は平板とすらいえるひとつの純愛のパターンしかない、と思った。

本題から離れてしまったので最初に戻ると、読者が「リアル」だと言うケータイ小説のなかで本当に事実に基づいているに違いないと思わせるほどリアルに描かれているのがデートDVに関する描写だと速水氏は指摘する(167ページ)。デートDVとはまだ結婚していない男女間で起きる暴力で、男のほうの異常な独占欲や過度の束縛を「愛情」として受け入れてしまうばかりか自分がいたらなかったせいだと自責的になってしまい「被害者」と言う意識を持たぬまま暴力がエスカレートしていくと言う経緯をたどる。
男女関係においてデートDVというものが全く新しい暴力の形だとは私は思わないけれど(このような歪んだ「恋愛」関係は顕在化しなかったが昔からあっただろう)、ケータイコミュニケーションというどれほど離れていても「つながる」ことができるという性質がケータイ小説デートDVがリアルに描かれるようになった原因になっているとは考えられるだろう。オタクもヤンキーもいまの時代の新しいコミュニケーション圧力による不自由を被っていてその在り方もかなり変容し、その影響の現れ方がちょっと違って見えるだけなのかもしれない。


自分は白黒テレビがようやく一般家庭でも買えるようになった時代に生まれているのでパーソナルコンピュータやデジタルゲームについてはその黎明期からたどった道のりを知っている。マンガやアニメは自分がうまれるよりもはるかに前からあったものなので、実際調べてみるとその歴史のなかには、後から付け加えられた伝説や、欠落を見出すことができる。
だからたとえばインターネットをコンピュータ技術の革新であるとか新しいビジネスチャンスとしてみる人々の多くが未来の想像だけに夢中で、過去から現在にかけて人間と社会にどのような影響を与えたかについてその便利になった部分ばかりを強調してしまいがちなことには違和感を禁じえない。一方でインターネットという技術だけによって何かが変わったというような考え方では捉えきれないかもしれないことを安易に語るべきではないだろうが、工学部出身の徒としては技術万能主義の無知と偏見による無邪気な楽観に対しては常に批判的でありたいし、時代の変化を把握するには人文社会系の知に触れることがやはり重要だと考えている。