抒情詩と四コマ漫画

最近マンガに関して雑誌が不振にあえいでいるなどといろいろなところで話題になっていますが、ここ数年マンガ研究は目立たないながらも着実な成果を上げつつあると思っています。そんな中で突然ですが清水勲さんの新著が出ていました。

四コマ漫画―北斎から「萌え」まで (岩波新書)

四コマ漫画―北斎から「萌え」まで (岩波新書)

岩波新書ですがちょっとすごいのが図版の量。全体の半分にはさすがに至っていないでしょうが、誌面の三分の一を超えているのではないでしょうか。
四コマ漫画は起承転結があってマンガの基本とかつてはよく言われましたが、日本ではもともと六コマ構成が多く、世界的に見たときには三コマ漫画もかなり多いとのこと。掲載する媒体が新聞か雑誌かでも変わりそうです。判型の小さめな雑誌で見開き二ページだと六コマはちょうどいい具合になります。
ロドルフ・トップフェール(著作上の表記による)のコマを割った漫画表現(バンド・デシネ)よりも早くから日本にコマを割った物語絵があったという指摘など明治の漫画を中心に研究している清水さんらしいですが、マンガにとってのコマ枠をどう考えるかという問題につながるところでしょう。

これまでのエントリで書いたこととちょうどつながるところで興味を惹いたのは、麻生豊の「のんきな父さん」です。どうしても「ノンキナトウサン」とカタカナが浮かぶのですが、実際に載っている図版では「のんきな父さん」と題名が書かれています。これが興味深いのは、題字だけでなく吹き出しのセリフまで左から右へと横書きで書かれているところ。「のんきな父さん」はアメリカのG.マクマナスの「親爺教育」が日本語に訳されて『アサヒグラフ』等に掲載されたのを範としたといわれていますが、報知新聞に掲載された作品を見ると、左から右へ進み二段組みになっています。六コマ完結の図版もありますが、これも左から右へ進みながら三段で構成されています。つまりコマの進行に合わせて文字を読むために、左から右に横書きにしたことがわかります。本をいま買って帰ってきたばかりなのでこの方式がどのあたりまで受け継がれたのかはわかりませんが、日本の新聞、雑誌は縦書きで右から左進行なので、マンガの左から右へ読む進行は紙面全体からみると例外的な反対方向となり、国産の漫画はおそらく右始まりで構成し直されたのでしょう、ほかの図版でも左から右へ進行するものは載っていないようです。
左から右へ横書きというのは、戦前の日本でも時々見られます。なぜなのか不思議に思っていましたが、外国の新聞、雑誌の紙面から引き継がれたこともあったのでしょう。

この本ではちょうど半分を過ぎたところから戦後四コマ漫画の紹介になっていて、ざっと歴史をなぞる感じでちょっともの足りませんが、ひとつ直接四コマと関係ないところであっと驚いたのが、かつてヒットした「オバタリアン」の作者が実はかつて少女まんがの連載をもっていたということ。私が中学生の頃ですが、すえつぐなおとという男性作家がたしかにマーガレットに連載を持っていました。病院の待合室で読んだので連載は別冊マーガレットだと思います。言われてみるとかつてのほのぼの系の絵柄が残っているので、四コマでは誰の絵柄の系統をたどったのかちょっと考えてみて、もしかしたらフジオプロから古谷三敏の絵柄でしょうか。あだち充の兄である漫画家のあだち勉学年誌に載っていた「ダメおやじ」のアシストをしていた記憶があるのです。

全然抒情詩にたどり着かないまま長くなっていますが、明治の四コマを紹介しているところで国木田独歩の名前が出てきました。独歩は編集者であり、本人がマンガを書いたのではないと思いますが(しかし職業漫画家が少ないころは編集者が漫画を自分で書くこともあったので、独歩に絵心があったか調べたほうがいいかもしれません)、独歩は明治期に数多くの雑誌を創刊していて、創刊100年を超えている『婦人画報』を創刊したのが独歩であることは知る人ぞ知る事実です。それで、私が期待したのは竹久夢二の四コマが載っていないかということでしたが、私が見たのは過去にたった一作だけでもあり、本では全く触れられていませんでした。
今回の清水さんの本には小林清親について詳しく書いていますが、コマ絵については書かれておらず、コマ絵がいわば一コマ漫画のように一枚絵のカットの形式であることを考えればそれは当然なのですが、竹久夢二の名声を得る前に描いていたコマ絵は謎が多く、有名になる前に無記名でコマ漫画を描いている可能性があるのではないかと思っているのです。

私が見た夢二の四コマは、町田市立国際版画美術館が2001年に開催した、「夢二1884-1934 アヴァンギャルドとしての抒情」という竹久夢二展の図録に載ったコマ絵の図版の中でたった一つだけあったものです。図録の気合の入った内容からして、このおそらく画期的だったであろう夢二の回顧展について私は実際の展示を見ておらず、たまたま町田市内のどこかの売店で売っていて手に入れたこの図録を長らく見失っており本当に四コマだったのかもちょっと自信がないのですが、最後に見事にオチがついていて夢二には漫画の才能もあったようです。その図版は掲載誌も年も不明ですが、抒情詩を書いている独歩と抒情画の産みの親というべき夢二が明治の末に一緒に仕事をしていてもおかしくないと思うので、だれかいい機会と思って調べてみてほしいと思うところです。