昭和金融恐慌と少年倶楽部

日本の児童漫画がどのように成立していったかについての研究は、たとえば鷲谷花氏が1999年に筑波大学の文学研究論集に掲載した論文「初期児童漫画の成立」などがWebからでも読める(http://hdl.handle.net/2241/14060)。大正5年の『少年倶楽部』から断続的に掲載されていた吉岡貫一郎(金造)の「活動写真」というページで、見開き2ページタテ4段を用いたコマ枠のないコマ形式の漫画がある。4コマ漫画のような形式であれば明治期にまで遡れる可能性もあるのではないかとも思うが実例は見たことがない(竹久夢二の初期のコマ画にコマを割ってオチをつけたものがあるが少年少女向けではない)。

有名な漫画系ブログで扱ったものとしては、漫棚通信ブログ版が「少年倶楽部のマンガ」(http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_9e9f.html)というエントリを挙げている。ただしここでは名高い「正チャンの冒険」から「目玉のチビちゃん」(田河水泡、昭和3年)までをつなぐことはされていない。昭和初期でももっとも活躍していたのは大正期から描いていた宮尾しげをであった。
ところでこのエントリでは『少年倶楽部』が初めてカタカナで「マンガ」と記したのが昭和2年であると書かれているが、それは「マンガ祭り」という複数の作家による特集ページとして企画されたものである。ちなみにこの年にカタカナで「マンガ」と記されたものの、このエントリで後年の漫画特集が挙げられているのを見てもわかるように、このカタカナ表記がこれ以降に定着している様子ではなさそうである。実作品では子ども向けなのかひらがなで「まんぐわ」(「わ」を小さく書く)と書かれているものも若干あったが、「マンガ」の表記はあまり見た記憶がない。

コマ漫画として吉岡貫一郎から田河水泡をつなぐ作家というと第一に藤井一郎が挙げられる。「活動漫画ロイドの冒険」は三一書房の「少年小説大系」に復刻されて収められている。ところで藤井一郎は昭和二年の時点ではすでに故人となっているようだ(詳細未確認)。
このほかに、井上猛夫、井元水明、清水対岳坊、小野寺秋風などが大正から昭和にかけての重要なポジションにある。ちなみにコマ形式の漫画は大正期から昭和初期にかけては、吉岡が描いたような、コマ枠がないものも多く見られる。

昭和金融恐慌は戦前に起きた世界恐慌より2年前の昭和2年に起こったが、高畠華宵が稿料の問題で少年倶楽部から日本少年に移籍した華宵事件の後に、少年倶楽部は編集方針を読み物中心として、それが成功して一つのピークを迎えるのが昭和2年頃と思われる。関東大震災から世界恐慌までの間に漫画が大きく発展したことは興味深い(稿料が安くすんだのだろう)。
昭和2年の連載小説としては、佐藤紅緑作、斉藤五百枝画の「ああ玉杯に花うけて」、吉川英治作、山口将吉郎画の「神州天馬侠」、大佛次郎作、伊藤彦造画の「角兵衛獅子」といった少年倶楽部を代表する作品が載っており、竹久夢二のオフセットカラー口絵が掲載されるなどの豪華さで、総ページ数で350ページほどある。マンガ特集だけでも32頁費やされていた。まだ戦時下には入っておらず、関東大震災によって大正モダニズムが終わったとも言われるが阪神間文化の影響を受けた昭和モダニズムとなり、少年倶楽部の黄金期が訪れたのがこの頃になるのだろうか。