遅れてきた井上一雄

昭和初期の雑誌漫画について考察しようとするには、その背景に円本ブームがあったことを念頭に置かなくてはならないのでしょうが、エントリとしてはまとめにくいので、後回しにします。この手のエントリは今後はてなダイアリーのほうでは書かないかもしれません。
終戦前の雑誌の漫画のほうを確認してみたら、雑誌統合を生き残り敗戦を迎えた『少年倶楽部』、『少女倶楽部』、『少女の友』の連載漫画が昭和17年の12月号で一斉に終わっておりました。のらくろの連載が終了したのがひと足早くこの年の10月号だったと思いますが、『少年倶楽部』の複数の連載、『少女倶楽部』では長谷川町子の「仲よし手帳」、『少女の友』ではまつもとかつぢの「ヒナコ姉ちゃん」という連載が12月に終了しています。これを見て漫画に規制がかかったのかなと思ったら、『少年倶楽部』と『少女倶楽部』ではその後も漫画が掲載されました。
前回紹介した漫棚通信少年倶楽部のエントリによれば、島田啓三の『ダンちゃんの荒鷲』が昭和19年から終戦直前の20年7月号までの連載とのことで、ダンちゃんとは『冒険ダン吉』からとられた、つまり同じ主人公による漫画ですが、形式の上で絵物語とみなされたのかもしれません。しかし1ページながらコマを割った漫画が『少年倶楽部』と『少女倶楽部』で連載を続けていました。これらの作者が、後に野球漫画の元祖として名高い『バット君』の作者、井上一雄です。
井上一雄がいつ頃から漫画を描き始めたのか私は調べておりませんが、敗戦色が濃厚になった時期に井上の描いた漫画はいわゆる軍国美談といったイメージとはほぼ無縁といってもよく、日常生活を描いて登場する少年少女はとても明朗な孝行者、「良い子」として描かれていました。例を挙げれば「仲よし手帳」のイメージとかなり近い生活漫画です(と書いても目に触れないでしょうが)。
少年倶楽部の編集長である加藤謙一は戦後公職追放の憂き目にあって講談社から離れ、学童社を興して『漫画少年』を創刊して戦後漫画に大きく貢献したことはよく知られていますが、公職追放などに関しては私の不勉強のため、もう一人の『少女の友』の名編集者と呼ばれた内山基も戦後実業之日本社を離れて『私のきもの』という雑誌を出しておりますが、公職追放処分を受けたかどうかがよくわかりません。第一次追放解除によって職場復帰が可能になったのは昭和26年で、二人の名編集者が戦後に雑誌を興したのはそれよりもずっと前のことでした。
いずれにせよ、敗戦を前にしてもなお漫画を載せていた加藤謙一の、漫画に対する異様なほどの情熱は窺えます。『少女の友』は読者の年齢層が高かったため雑誌統合を経て青年向け雑誌として敗戦を迎えたとどこかで読んだのですがその誌面に漂う悲壮さに対して、『少年倶楽部』の場合は児童向けとして敗戦を迎えたと考えれば、井上一雄の描いた漫画の戦前から戦後の連続性はうまく説明がつけられそうです。

追記

戦後野球マンガ史―手塚治虫のいない風景 (平凡社新書)

戦後野球マンガ史―手塚治虫のいない風景 (平凡社新書)

Webをざっと見たところ井上一雄について詳しい情報はさほど載っておりませんが、少年倶楽部に関する本はけっこう出ておりますし、漫画少年についてもそれなりに本が出ています。
米沢嘉博氏の戦後マンガ史シリーズは三部作として知られていますが、後に平凡社新書から『戦後野球マンガ史』を出しています。購入してから内容をよく覚えていませんが、井上一雄から始まる戦後漫画の流れを概観する上で有用でしょう。