日本で最初の少女まんが家は誰だろうか

Wiiを購入したので書き込んでみているのですが、やはりリモコンとソフトキーボードで入力するのは面倒です。パケット代を気にしなくてもいいので携帯電話のキーでもいいのですが。
先月は都内から神奈川にある図書館を7館くらいまわって資料調べをしたのですが、3年前くらいの雑誌のバックナンバーになかなか出逢えず往生しました。中央図書館にあると思ったら分館にしか置いてなかつたということもあって、一度行った時複写受付にギリギリで間に合わなかった大宅文庫にもう一度行くしかないかなと思っていたのですけれど、下調べしてあった某市の図書館で閲覧と複写ができました。ちょうど臨川書店からビジュアル文化シリーズの刊行が始まって、清水勲さんの「年表 日本漫画史」を参考とさせてもらっていますが、少女まんがの略通史の記載を見ると、昭和3年(1928)の北沢楽天「とんだはね子」の次が昭和15年(1940)から連載された長谷川町子の「仲良し手帖」となっていて、この2作品の間に存在した作品についての知見はまだ盛り込まれてはいません。
「とんだはね子」は実際に内容を読んでいないので憶測になりますが、清水さんが少女を主人公にした最初の漫画と思われると指摘しているとおり、はね子は女学生と思われ、清水さんの別の本では列車のつり革で体操をする度外れたお転婆ぶりを披露しており(人見絹枝が活躍した時代に生まれたキャラクターとのこと)、昭和の始め、女学生文化が発達した世相が反映されたのでしょう。
とは言うものの、これを最初の少女まんがとするのは適当とは言い難いと思います。

年表日本漫画史(ビジュアル文化シリーズ)

年表日本漫画史(ビジュアル文化シリーズ)

大衆的少年少女小説に詳しい二上洋一さんは「少女まんがの系譜」の中で、田河水泡の「スタコラサッチャン」を最初の少女まんがとしています。本が今手元にないので、提唱しているというほうが妥当かもしれません。この漫画は昭和7年から「少女倶楽部」に連載されましたが、田河水泡がこの直前に掲載していた漫画は動物が主人公で、少女を主人公にした漫画は捜してみればみつかる可能性はけっこう高いと予想されるものの、女子読者にアピールするキャラクターが主人公であることを少女まんがの条件とするならば、二上さんの意見は自分が知る限りで可能性が高いと思われます。これは少女まんがの定義をどうするかによって変わってしまいますが(少女まんがという呼び名が生まれたのは週刊マーガレット創刊以降だと聞いたと思うのですが、最近記憶が怪しいです)、ここでは少女まんがを読んだことがある人が同意してくれる内容をイメージしています。

松本かつぢには戦争をまたいで長期連載された「くるくるクルミちゃん」があり、連載開始は昭和13年(1938)ですが、その前に連載した「ピチ子とチャー公」には、男女のきょうだいの設定などに「スタコラサッチャン」に触発されたのではないかと思われるところがあります。「スタコラサッチャン」以前にかつぢが少女まんがにあたるようなものを描いているかは未確認です。
では今のところ少女まんがの開祖は田河水泡だったと暫定的に定めておいていいかと考えると、あまり妥当と思えない気がします。なぜかというと田河水泡は「のらくろ」で一世を風靡した少年漫画の巨匠のイメージが強く、たまたま少女雑誌に漫画を描くうえで女の子を主人公にしたと考えたほうがしっくりします。なお私は現時点で「窓野雪夫さん」を読んでいませんが、男性名が漫画のタイトルになっていること自体が少女漫画家らしくない印象になっている感じです。松本かつぢが少女向け漫画一筋で描き続けているだけに微妙なところです。
ところで実は私はもう一人の漫画家が気になっていました。戦後「あんみつ姫」で一世を風靡した倉金章介は、田河水泡の弟子として知られ戦前から活躍していましたが、少女向け一筋で活躍した漫画家でした。戦前には、昭和10年に「どりちゃんバンザイ」を連載していますが、当時は戦後用いた章介の筆名をまだ用いておらず、とらお、良行以外に、デビュー当初はとん子など女性名も用いていたようです。少しばかり初期作品を見たかぎりでは、1ページものでまだ洗練されていませんでしたがクラカネの名は目立っていました。さらに調べたかぎりでは、田河水泡内弟子になる前の学生時代に漫画の投稿をしており、初入選は「少女倶楽部」とのことです。年まではわかりませんでしたが、倉金は1914年生まれで昭和一けた中頃でしょう(ちなみに大正から昭和への変わり目の子ども漫画といえばまだ古い宮尾しげをの全盛期で、「とんだはね子」は時代の変わり目を象徴するとはいえましょう。ちなみにスピード太郎が新聞連載開始は昭和5年の末)。
となると、倉金の存在が田河水泡をして少女向け作品を書かせしめたとも考えられそうです。