開催中の蕗谷虹児展について

いま弥生美術館で蕗谷虹児展を開催していますが、新潟県新発田市にある蕗谷虹児記念館から虹児の三男にあたる蕗谷龍生氏が来られてギャラリートークの日に詳しい話をされていました。

虹児は竹久夢二を尋ね、吉屋信子が代表作の「花物語」の連載をはじめたことで知られる「少女画報」の主筆であった水谷まさるに紹介されデビューし、日本初の未婚女性向け雑誌と考えられる「令女界」が創刊されると表紙絵で一躍スターとなりましたが、若くは尾竹竹坡に師事しており、尾竹と対立していた横山大観などが日本の画壇で力を持つようになると周囲は第二のフジタを目指してフランスへ行くことを勧めたようで、実際にかの地でも作品が連続して入選して人気も出てめきめきと頭角を表したのですが、日本にいた家族が膨大な借金を抱えたため志半ばにして急遽帰国します。もしフランスに留まれたならばタブロー画家として成功したでしょうが、竹久夢二に憧れてさし絵画家となった虹児には抒情詩人としての自負があり、戦前の日本の医大に留学して後に作家に転身した魯迅は中国に戻ってから虹児の詩を翻訳して出版しています。

ベトエイユの風景―蕗谷虹児の世界

ベトエイユの風景―蕗谷虹児の世界

この本に魯迅の出版した詩画集が収録されています。

昭和29年頃少女雑誌にマンガが載せられるようになると抒情画の需要が落ち込んでしまいますが、日米開戦の直後に華麗な絵柄でアンデルセン童話の絵本を出していた虹児は、戦後も絵本、アニメーション、そして堀口大学三島由紀夫の豪華本の装丁などを手がけ、晩年も個展を開くなど長く活躍することができました。
このように書くと大スターのように見えますし、実際その名は広く知られ特に戦前は大正モダニズムのなかでもまさにスターではありましたが、彼は若い頃樺太で暮らしたり、人気が出てからも多大な借金を返済するためにとても贅沢などまったくできず芋ばかり食べていたとか、食えない画家のように波瀾万丈の生涯を送ったということです。夢二も港屋を開いて繁盛したにもかかわらずスキャンダルの際に商品の仕入れをせず店をつぶしたらしいですが、虹児も自分のお金を盗まれたりとお金の苦労話が多かったようです。それに比べると昭和に活躍した中原淳一松本かつぢは夢二や虹児を見て育ったのか商才に長け事業も成功させています(虹児はかつぢの妹と再婚しているが、かつぢは反対したという)。虹児と活動時期の重なる吉屋信子にしても少女小説でものすごく稼いで戦後は競馬にはまって馬主にもなり、トキノミノルの追悼文で「幻の馬」と名づけたのは知る人ぞ知るエピソードです(なおトキノの冠名は故菊池寛のもので吉屋の所有馬ではない)。
弥生美術館はスペースがそれほど広くありませんが、今年の回顧展はアニメを除きこれまで未公開だったものも多く展示され相当に充実しており、谷内六郎氏や内藤ルネ氏のオマージュも見事なものです。8月からは新潟県の県立万代島美術館で大規模な回顧展が予定されています。記憶だけで書いているのでいろいろと正しくないところがあるかもしれませんがご容赦を。

ちなみに弥生美術館の次の企画展は戦後SFの美女画で一世を風靡した武部本一郎氏(城青児の名で漫画を書いていたことが最近判明し、紙芝居の絵師としても活躍していた)を予定しています。