子猫は森に捨てよ

倫理的な問題に関して書くのは気が進まない。90年代に永井均の著作を読んで、存在の問題についてはある程度自分の中で得心が行く大きな進展があったのだが、倫理についてはたとえば柄谷『探究』批判以降、注目して読んできたにもかかわらず、一方でこのブログでも柄谷に倣って単独者たれなどと呼びかけたりして、特に考察を深めることはなかった。

「魂」に対する態度

「魂」に対する態度

(この本は明らかに90年代における一つの転換点となった一冊。私にとってはそれまで漠然と興味のあった哲学にハマる出発点となったが、私は内容を忘れるのも早いし、きっかけとしての一冊として時折読み直す本ではある)

過去のエントリではマンガに関するある事件について、

この事件を仕掛けた者の「正義」が問題なのだ。そのような類の正義の身ぶりが現在あまりにも蔓延しすぎている(たとえば青少年の凶悪化や少子化問題の語られ方など)ことが、今の世の中を異様に息苦しいものとしている、現在もっとも由々しき道徳の問題なのではないのか(実は私のブログ自体もそう言う意味では危うげではある。私はブログで語ることによってすでに加害者である、とかつて書いた)。

のように記している。かなり怒りにまかせて書いたので強い主張になっているし、是非はともかく私の基本的な考え方ではある。ただ倫理というのは結局は直接相手と対話して個別的かつ実践的に解決していくしかないものではないかとも思うので、自分の考えを単にブログ書くことにどれほどの意味があるのか、という疑問がある。もちろんブログであるから他者との対話は可能なのだが、結局は第三者としての意見交換だから、価値がないことはないとしても中途半端な環境だとも思う。
(実際には引きこもり的で積極的に話し合いすることもあまりないし、これじゃただのネット弁慶だなと思いながらそれは置いといて)

私は東京の団地で育った人間なので、犬や猫を飼ったことはない。でも飼ってみたいと思うことはしょっちゅうだ。それで新しいマンションが建ちチラシが入ってくるとペットが飼えるかどうかを最初にチェックするが、ペット対応のマンションという物件はあきれるほどに限られている。
周囲の迷惑になるからというのはもっともな理由だが、ペットを飼うという選択肢に大きな制限が設けられ、多くの人がそれを黙って受け入れているのは、都会においては動物の存在自体が迷惑だ、という考えが強いからではないかと疑いたくなる。ペットを飼うことが人間の都合であれば、ペットの生きる環境もまた人間の都合であるだろう。

ペットの避妊は義務である、と考える者が多いのだろうが、私が思うに、特に女性の場合ペットに避妊手術をすることに罪悪感を覚える人はかなり多いのではないか。ペットに避妊手術を施す決定をしたからには自分も子供を産む資格がないとまで思い詰める人がいてもおかしくないと想像する。できれば手術を施さずに生を全うさせたいと思う人もいるだろう。
ペットをめぐるコミュニティがあって、産まれた仔を確実に里子に出せるならそれに越したことはないだろうが、どう考えてもその点で我々の社会はペットに寛容な社会に進んでいる感じはしない。増えてもらっては困るのだから致し方ない面はあるにしても。

猫に避妊手術を施すことと子猫を殺すことを単純に比較したくはない。なにかが違う。ここに問題がある気がしている。
猫の避妊が正しい、という根拠は、前者が社会的で、後者が反社会的であるというのがその理由である。この選択は猫に対する愛着とは関係なく導かれる。もちろん猫に対する愛着から避妊を施したほうが猫にとって幸せだという考え方も優位である。エッセイを書いた作家もそれはわかっていて書いているようだ。だが結局は私にはそれは人間の側の都合のすり替えとしか聞こえない。
(ちなみにエッセイについては自分ならどう考えるかという触媒として利用する。主張の中のいろいろな矛盾についてここで突っ込みを入れる意味があまりあるとも思えない。猫への愛着を支持するつもりで読んでみる)

それでは猫の充実した生という観点から見たらどうなのか。
ネットに転載されたエッセイを読んでいてまず思ったのは、子猫殺しについてむしろ義務と責任の意識が強烈に感じられるところだ。つまり充実した生を全うさせられないならば自分の手で殺すという意思である。ここにはいささか過剰な思い入れすら感じられる。

タヒチでは野良猫はわんさかいると書かれており、また飼っていた雄猫も家に居着かず消えたという。
では人里離れた森にでも捨ててはどうか。運が良ければ野良として生き延びることができるかもしれないし、それが充実した生かどうかはしょせん人間には判断のしようがない。生まれてすぐ生き延びられないというのなら歩いて自分でえさを食べるくらいまで面倒を見る。

ところで、親猫は子猫を産むことはできても育てる機会は奪われているのはどうなのだろう。人間ならばその方が不幸だろうが、ペットを飼ったことがないので親猫がどの程度育児をするのかどうかはよくわからないが。

念のため、これはあくまでも自分が考えてみたことであり、正解を導くことを目的としていない。ちなみにこの話題に関する議論にもほとんど目を通していない。

また、日本では、このような考え方でペットを捨てれば残念ながらたちまち問題になるだろう。解答を示していないのは、ペットを捨てる人間の論理とはたぶんこのようなものであると思うからだ。