萩岩睦美と岡崎京子、そして陸奥A子

吾妻ひでおの「失踪日記」は確かに素晴らしく、面白かった。
作品としてすぐれていたりとか早くも復帰次回作への期待が高まる動きはもちろんあるのだろうが、過去の作品がいやにあっさり文庫になっている。吾妻さんの次回作には業界日記を期待してみようか。
「コミック新現実」第4号は白倉由美の特集だ。吾妻さんはともかく、白倉由美という作家に対しては僕は思い入れがないので、逆に大塚さんが一同居人であるというその人にああも異様なほど強い思い入れをもって(大江健三郎の小説の題名を借りてきて、作品の解説に吉本隆明のたしか岡田有希子論をつけるまでしたのだから尋常ではなかった)作品を出し続けたのかかえって気になるところだけれど、今回は古本落ちでもするまでさしあたり他の誰かがやってくれることを期待しよう。(追記:後に出版社は様々ながら日記ものはシリーズ化した。)

うつうつひでお日記 (単行本コミックス)

うつうつひでお日記 (単行本コミックス)

失踪日記

失踪日記

逃亡日記

逃亡日記

しかしどうしてもこの流れから「漫画ブリッコ」という雑誌を思い浮かべずにはいられないと思ったら、この雑誌を特集しているウェブサイトがあることを知った。(大塚氏が編集長を辞める際に白倉由美と二度にわたって対談したその内容についてはぜひとも読み直してみたい。ブリッコを愛読していたちょっとマンガ夜話大月隆寛タイプをもっと中上健次に近づけたような気性を持つ風変わりな友人が「この編集ゴロが!」と吐き捨てるように言ったことだけがまざまざと思い出されるいわく付きのものだが、私がかすかに記憶しているのは村上春樹を高く評価できない文学はダメだと言っていたような気がする。もうほとんど記憶の彼方だけど大塚氏が後に論壇内で地位を築くその予告のようなものであるとともにその挑発によって敵を作るというスタイルがまさに露わになった対談であり、大塚氏のいわゆるサブカルチャー批評宣言の原点のように思う)

私が一浪して大学に入ったのが1983年で、当時はまだLaLaの黄金時代の終わりのほうだろうか。私は少年チャンピオンも実質は黄金時代からかげりの出る頃に購読し始めたし、LaLaの黄金時代も体験していない。まんがくらぶに入部してはじめて美少女漫画雑誌なるものに出会ったと言える。「レモンピープル」や「漫画ブリッコ」は同期の部員から見せてもらったし、最初からマンガ家を目指すような部員はほとんどいなかったような環境でかろうじてマンガ家を目指すというモチベーションを保つという言い訳でエロ画を描いてみたりしたこともあった。岡崎京子桜沢エリカが描いていたことがとやかく言われるが、駒寮の部室にたむろしていたら自販機本の編集者がそんなところにもやってきてとりあえず漫画を作品として書き上げられる人が部費の補填のために参加したような時代である。山本直樹がSIGHTの特集で言っていたと思うが洋森しのぶ(みやすのんき)の凶悪ぶりに多少衝撃は受けたものの(山本氏が新体操会社の名前を出したのは嬉しかったなあ。すっかり忘れていた)、中田雅喜の身も蓋もないエロギャグマンガと、なんでここに書いているのかといった感じの藤原カムイの存在が大きかったくらいのものか。私が新たに書き加えることはほとんどない、と思っていたが、岡崎京子のマンガについて興味深いことが描かれていた。
1984年8月から連載された「爆烈女学校」という作品の主人公の少女の名前が、萩岩むつみ、とある。萩岩という姓は電話帳を見ても載っていないから記載が誤りでなければこの名前は当時りぼんに「銀曜日のおとぎばなし」を連載していた萩岩睦美からとったと考えられる。

以前にあきの香奈えんどコイチについて語らねば80年代の漫画史を描き出すことはできないと書いたが、そういう中で筆頭にある存在が萩岩睦美であることは私にとって疑う余地がない。たまたまサークルの中に水沢めぐみがいたことから手に取ったりぼんを自ら購読するようになったのは「銀曜日のおとぎばなし」が連載されていたからにほかならない。あらためてこの作品の呪縛の深さを思い知る。

銀曜日のおとぎばなし 1 (集英社文庫―コミック版)

銀曜日のおとぎばなし 1 (集英社文庫―コミック版)

銀曜日のおとぎばなし 2 (集英社文庫―コミック版)

銀曜日のおとぎばなし 2 (集英社文庫―コミック版)

銀曜日のおとぎばなし 3 (集英社文庫―コミック版)

銀曜日のおとぎばなし 3 (集英社文庫―コミック版)

この物語の主人公である小人族の王女様、ポーに対する思い入れはもしかしたら萌えと言えるのかもしれない、と思ったが、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」(余談ながら私はこの本を読んだと思いこんでいたのだが、読んでいないことに気づいて急いで昨日読み終えたばかりである。他の本はだいたい読んでいるはずなのになぜ抜けていたのか。データベース消費についてこの本ほど明快に書かれている本はないのに)によれば、萌えというのは萌え要素に分解できるものだから、「綿の国星」のチビ猫から抽出された猫耳や、ポーのキャラクターを借用したとおぼしき「とんがり帽子のメモル」に対しては嫌悪感さえ覚えていた私は萌えを体験することはそもそもできないのかもしれない、と思わざるを得なかった。


電話帳を見ても載っていない、と言ったがこれはもちろん萩岩睦美、という名前が少女マンガ家にしてはちょっと堅いイメージだったので当時電話帳を調べてみたのである。この名前がペンネームだとすれば、萩は萩尾望都(なにしろポーである)、岩は岩館真理子、そして睦美は陸奥A子から取ったのであろう、と推理した。
(余談ながら白倉由美という名前はボードリヤールの「シミュラークル*1アナグラムであろう。次に記すが私は大塚氏の少女論には最初から違和感を覚えていて、白倉由美というのは大塚氏の別名義ではないかと疑っていた。彼の語る少女たちというのはつまるところ大塚氏自身ではないのか、という疑念である)

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

*1:オリジナルの記事で指摘を頂いたがフィリップ・K.ディックが用いたSFファンにはなじみのある「シミュラクラ」という概念がある。大塚氏のまんが論は80年代に広告業界で流行していたボードリヤールから消費文化論の着想を得ていると思うのでこのように書いたがアナグラムとしてはディックのほうが正確だろう