吹きだしの起源とは

今年は手塚治虫生誕80周年で年末も近づいて手塚特集を組む本がたくさん出ていますね。
しかしルミネ10%オフでちょっと高価な本を何か買おうかと思って、まず橋本治の本を探したところ
広告批評から出している彼のエッセイ集はあまり数が出ていないのか在庫がよくわからず
書店に取り寄せる時間がなさそうなのであきらめ、このところハイペースで本を出している
蓮實重彦の本を購入。マンガ批評にはもっと蓮實的なアプローチがあってもいいように思います。

夏目房之介氏のブログと漫棚通信ササキバラ・ゴウ氏のロドルフ・テプフェール論が紹介されていて、
非常に価値ある試みであると思います。期間限定と記されているので本になるのかと思ったのですが、
漫棚通信によればテプフェールの漫画集はまずコミティアで出されるとのことで、となると商業出版ではなく
ササキバラ氏による私家版らしいとのこと。

期間限定とのことでせっかくなので読んでいてちょっと虚を突かれたところを引用します。

07■コマ割り表現と時間

 一般的にまんが論には、この弊害がよく見られる。「動かない絵は、原則として動きや時間を表わさない」という思い込みを暗黙の前提としたまま、「動かない絵にもかかわらず、動きや時間を表現する技術」を検討するという倒錯した設問を掲げて、読み解こうとしている文章を、あちらこちらで見ることができる。

自分はこういう点をあまり気にしていなかったのであちらこちらで見ることができるといわれてちょっと驚いたのですが、最近の漫画表現の傾向からすれば、このような傾向はあるのかもしれません。しかしかつて少なくともまんがの絵というのは動きや時間を表すのが常識とされていたと私は思い込んでいたので、とても驚いたわけです。
私にとって最近の漫画がつまらなくなったと感じることがあるとすれば、もしかするとそのへんに原因があるように思われました。

漫画における時間についてこの場で考察するに、
1. 主にコマ割りの進行とセリフによる物語時間
2. 主に絵による運動時間
3. 読者の読みにおける滞留時間
が挙げられます。滞留時間というのはいわばマンガを読んでいる時間で、読者の興味によって自在に変えることができるものです。

夏目房之介氏の手塚治虫論では、線による圧縮と開放を考察しているところがあり、夏目表現論の中で私が一番価値があると考えているところはここだろうと思います。
それから、1987年に発行された米沢嘉博編「マンガ批評宣言」のなかに、後の研究者にとっては名高い加藤幹郎氏による「愛の時間」という小論が掲載されています。加藤氏はここでまさに静止画という言葉を用いながら、サイボーグ009の島村ジョーの墜落の一画面が、映画におけるストップモーションのように切り取られた時間とはとは全く異質の無時間性=超時間性を備えていることの驚きが表明されているもので、決して難解な評論ではなくマンガ読者であれば腑に落ちるものだと思われますので、ここに紹介しておきます。

「マンガ批評宣言」はマンガ評論でもっとも蓮實的な試みが集められた本といってもよいでしょうが、松枝到氏による小論の中ではカリカチュア(カートゥーンの語にはアニメーションなどの別の意味もあるので使いづらいのですが)が論じられ、吹きだしの起源についても紹介されています。当時の見解によれば、現在の吹きだしとほぼ同質のものは、トマス・ローランドソンが導入したものだといわれており、というのは、ローランドソン以前にも吹きだしのようなかたちで絵に文字を入れたものはあるけれども、それらは「どうしようもなくエクリチュールである」、つまりそれらは<いま>を示す声セリフではなく、<かつて>や<聖句>を表す書き言葉であった、ということでしょう。紹介されている図版は1792年のものでRowlandsonではなくJ. Gillrayによるものですが、18世紀の後半には登場していることになるので、テプフェールより一時代前ということになります。