メモ:ナンセンス漫画の様相

これは昨年の4月8日に植木等さんの追悼がきっかけでSNSに書いたものです。修正せずに再掲載しておきます。
ネットにアーカイブされている論文「《ナンセンス文学》の様相」を見たほかはだいたいネットの情報だけで書いたもので、正確さを保証するものではありません。

つい最近実家に置いてある本から「KAWADE道の手帖 長新太 こどものくにのあなきすと」を拾い出してめくっていたら冬野さほの書き下ろし漫画が載っていて驚く。全く驚いたのは、絵が見事に退行していたこと。デビュー時の下手な絵とはまるで違う、本当に小学生が書いたような絵になっている。たぶんしばらくペンを手にしていないのではないか。この本に寄稿していた人で今覚えているのが大竹伸朗久里洋二大竹伸朗谷岡ヤスジの熱烈なファンとして知られるが、ここでも長新太谷岡ヤスジの間につながりがなかったかなあと述べている。赤塚不二夫杉浦茂のナンセンスを採り入れたのは何かに書いてあったと思ったが、長新太の影響となるとわからない。長新太はナンセンスの神様との異名をとり戦後漫画の巨匠の一人と呼べる存在だが、彼を漫画家として認知しているものが少なくなったのだろうか。
久里洋二長新太とともに独立漫画派のメンバーであり、このグループを設立した一人が後に日本漫画家協会を設立する安野モヨコの伯父としても知られる小島功らしい(はてなダイアリーのキーワードによる。ウィキペディアにはそこまで記されてはいない書きかけの状態)。ちなみに冬野さほ安野モヨコは親友でマンガ家デビューもほぼ同時期、また冬野と松本大洋とは幼なじみだったと何かに書いてあったと思うが、松本大洋の母親が著名な児童小説作家であることも知られている。
独立漫画派について検索をかけてみると、井上洋介やなせたかしの名前が出てきた。井上洋介長新太と同じく絵本作家として、「くまの子ウーフ」のさし絵を手がけている。久里洋二が最初のアニメーションを手がけるのは1960年で、柳原良平真鍋博とともに「アニメーション三人の会」を結成、日本のプライベートアニメはここにはじまると言われるが、ユトレヒトの人物リストによれば、1958年に久里実験漫画工房を設立し、井上洋介長新太真鍋博との4人で画廊にて漫画展を行っていた。1964〜67年に草月会館で日本初のアニメーション・フェスティバルを開催して海外アニメーション作品の紹介も行い、インディペンデントアニメーション作家を輩出する役割を担ったらしい。1962年にはアニメーション作品『人間動物園』などいくつもの作品が海外の映画祭で受賞をしており、海外に名を知られることによって海外のアニメーションを広く紹介する役割を担ったと思われる。
もうひとり、やなせたかしの独立漫画派時代について検索で調べてみたら、小島功井上洋介久里洋二長新太関根義人吉行淳之介中村メイコと一緒に仕事をしていたとの記載があり、関根義人は漫画家だったが最後の二人がちょっと毛色が違う、しかし小説家吉行淳之介の父親は吉行エイスケ、少女スター中村メイコの父親はやなせたかしが傾倒したという中村正常であった。
この二人をつなぐキーワードは、昭和の初めに当時の主流となっていたマルクス主義文学に対抗した新興芸術派と呼ばれた作家たちで、龍膽寺雄が代表的な作家、同じ時期に横光、川端の新感覚派があり、日本文学にモダニズムの言葉が使われたのは昭和初期のことらしい。龍膽寺雄が『改造』の懸賞創作でデビューした翌年の1929年に小林秀雄が『様々なる意匠』で二席入選し、その時の第一席が宮本顕治の『「敗北」の文学』であったことは有名なエピソードだが、小林が翌年から文芸時評を連載開始し、「ナンセンス文学」、「新興芸術派運動」と題する批評を書いているらしい。
中村正常は「ナンセンス文学」を代表する作家で、他に井伏鱒二などが昭和初期のナンセンス文学の流行を担っていたようだが、この流行は小林が時評で採り上げた昭和五年を中心とする3年間くらいのものらしい。翌年に満州事変が起こりさらに翌年には五・一五事件が起きているといった社会情勢である。ナンセンスという言葉が日本でいつごろから使われ始めたかはわからないが、想像するに言葉のニュアンスとしては滑稽に近く、しかしユーモアとも違う感じではないか。都会的なモダニズムとナンセンスにはある程度の結びつきがあったと予想される。
中村メイコは戦後少女雑誌のグラビアで一世を風靡したが、戦後少女雑誌のスタイルは昭和初期の『少女の友』である程度枠組みが作られていったのではないかと思われる。名編集長と呼ばれた内山基が「日本少年」主筆から「少女の友」に移ったのが昭和6(1931)年で、編集を手がけたのがその翌年の1月号からとのこと。当時の講談社が各世代に応じた大衆誌のラインナップの中で少女倶楽部の部数を伸ばしていたのに対して、少女倶楽部とは対極的な都会的センスを推進した。さし絵で中原淳一が有名だが、松本かつぢが昭和9年の時点で4ページの連載漫画を書いておりこれは昭和15年まで続く(「『少女の友』とその時代」による)。グラフィック的にも大変洗練されていたものであり、前衛的なグラフィック・デザインを消化していなければ描けない絵である。モダニズムとは前衛的な表現手法に対してつけられる言葉であったはずだ。自分が図書館で少し見た限りで都会的なユーモア小説かもしれないような作品もあったのではないかと思われる。ちなみに漫画「くるくるクルミちゃん」を見た中でスタイルがまだ幼女化する前の主人公が、少年と対等な感じでおしゃべりするものがあって驚いた。ナンセンスとは違うものの、昭和初期のひとつの流れとしてとらえる必要を感じさせられた。
タイトルにナンセンス漫画とつけたのは戦後のナンセンス漫画の系譜が今ではよくわからなくなってしまったんじゃないかと思ってつけたのだが、最強のナンセンス漫画家を一人選ぶなら私はやはり長新太氏を選ぶ。その一方で今こうして考えてみると手塚治虫が作品の中に諷刺ではないナンセンスを一発ギャグのような形で持ち込むことを、手塚の後に続く作家たちはもしかしたらよくわからなかったのではないかという気がしたのであった。私自身手塚にナンセンスへのこだわりがあったのかどうか判然とし難いところである。佐々木マキのようなナンセンスの極北の作家も絵本に行ったように、ストーリーマンガとナンセンスの相性が悪かったのかあるいは抑圧のようなものがあったのか、大人向けマンガとストーリーマンガとの緊張関係のようなものがあったのかどうかも含めて考える手がかりを探ってみた。

あとネットで調べたものについてメモ。

中村正常が書いている雑誌を調べていたら発見:
戦前のアサヒグラフ

昭和5年に「漫画四重奏」連載、柳瀬正夢/宍戸左行/麻生豊/堤寒三の合作
昭和7年に「漫画城見参」と題して、柳瀬正夢・宍戸左行・麻生豊・堤寒三・服部亮英・清水対岳坊とある。
昭和14年の支那戦線写真の特集に近藤日出造の名前が出てくる
昭和初期は吉屋信子の活躍期。
柳瀬正夢はグラフィック・デザイナー、絵本作家として有名だが漫画家としても活躍していた。漫画家としてはよく知らないので宍戸左行、麻生豊と合作というのは気になるが、同じページに複数の作家を載せた競作集のようなものかもしれない。

『少女の友』は実業之日本社発行だが、たしか自分が漫研の頃には早稲田漫と実業之日本社の関係は深かった。創業者も早稲田出身らしいし、内山基については一般的な知名度は低いようだが早稲田大学にコレクションがある。

中村メイコの本名は五月。英語でMayというわけだった。ちなみに松本かつぢのクルミちゃんの前の連載マンガのタイトルは『ピチ子とチャー公』だが、さらにピチ子の名も最初はペペ子だったらしい。
昭和9年4月号の付録漫画「なぞのクローバー」が昨年公開されたが、前述の少女の友に関する本では、30cm×22cmというサイズの巨大さがまるで『少女倶楽部』の付録みたいで、『倶楽部』への対抗意識で作られたのだろうがしっくりこないと感想が述べられていた。雑誌判型の2倍程のサイズと思われるこの付録が画期的なものだと当時の読者に思われなかったとしても残念ながら仕方がないだろう。むしろ一度でもこうした試みをしたこと自体が驚くくらいで、戦後生まれの漫画に慣れた読者から見るとかつぢの連載漫画でも十分すごい。

ふと思いついてウィキペディアで小林信彦を参照。放送作家で青島幸男と生まれ年も場所も同じ。植木等氏のご冥福をお祈りします。
テレビで久々に前武を見て懐かしいと思ったが本当に子どもの頃ですね。

さらに追記:
ウィキペディアの富永一朗の項によると、富永の才能を最初に見出したのが吉行淳之介と記されている。吉行は作家としてデビューする前に編集のアルバイトをしていたようだ。