「オタク」が登場する前夜の記憶-1

1980年代の前半に大学の漫研に入部した者として、いま一度、オタクについての個人的な記憶を語ってみてもよろしいでしょうか。手元に当時を示す現物もなく、私の立場から見た古い記憶なので確かさは保証はできませんが、とりあえず再考のたたき台として。

大学に入学した頃はロリコンマンガ雑誌が登場して間もなく、先駆けとなる「レモンピープル」やその二番煎じとなる雑誌が現れ、毎月講読する人が漫研仲間には何人かいました。当時はいわゆる三流劇画とロリータ美少女の橋渡しをする、村祖俊一ダーティー松本中島史雄内山亜紀なども好まれていました。なお、私たちの世代は少年期からなぜかポルノ扱いではない未成年少女のヌード写真集を書店で見ることが多かったのではないかと思われます。これは永井豪吾妻ひでおの少年誌時代の空気に重なっているかもしれませんし、それはただの私の思いつきにすぎないかもしれません。
吾妻ひでおは、多くの雑誌で描くようになってからは、美少女とニューウェーブSFマンガも描く漫画家として、私と同世代の多くの者から、特別に評価されていました。

いわゆる美少女雑誌の読者が当時他に少年雑誌、少女雑誌の中で何を読んでいたかはわかりません。しかし以前から、24年組に代表されるブームによって、私でも堂々と少女マンガを読める時代になっていました。一般的には少年誌の他にヤングがつく青年誌や「めぞん一刻」などが載る若者向けのスピリッツなどがよく読まれていたように思われます。
ガロは健在で、原稿料が出ない特別な雑誌としてガロ系は他の雑誌では読めない作風として分けられていましたが、ロリータ美少女系の雑誌も、ガロと似て独自のジャンルと認識されていました。

ロリータ美少女系はコミックマーケットに居場所が得られ、愛好者で同人誌に描く者も多くなり、ビニール本の『少女アリス』を出していたアリス出版が漫研に訪れて、マンガを描かないかと持ちかけられて女性を含み数人が描いたことがあります。

同年代で、90年代のはじめにヤングユーを読んでいた人はオタクと呼ばれる特定の層を超えて男性にもかなり多く、話してみると知世ちゃんという女の子が主役のPapa told meの愛読者がとても多かったのには驚いた記憶があります。

ロリコン、ショタコンは確かにある意味で恋愛についてのコンプレックスの表明ではあったでしょう、これはブラコン、シスコンと同様に、性向についての告白という面があって、それによって話の合う同好の士を見つけられる側面はあったと思われます。オタクは自称されるよりも、仲間内でオタクと認定されること(無駄に役に立たない知識が多いという意味合いはあったと思われる)から広まったというのが私の経験から思い浮かぶ印象です。
オタクが広く使われるより前に、現実の女性よりもマンガに描かれた女の子に恋心を感じるという、二次コン(二次元コンプレックス)を自称する知り合いがいました。マンガの中のキャラクターに恋することを自嘲しつつも、周囲にはそれを共有する同じような仲間がいる、という感じです。この言葉はオタクよりもっと古くから使われていたと記憶しています。