マンガの欧米向け翻訳書の問題

前々回のエントリで紹介した本に書いてあることの中で単純だけど重大な指摘があったのでここでちょっと触れてみます。
日本のマンガには欧米のものとは明らかに異なるある特徴があり、私自身もそれを重要なものと考えていますが、欧米向けに翻訳する際にこれは移し替えがほぼ不可能に近いものです。それは何か。萩尾望都三浦雅士に日本のマンガに独自の特徴があるかと聞かれた際に一言で即答していますが、つまり日本のマンガは文字を縦書きするのが基本ということです。
それがなんで重大な問題なのか、ここで一分くらい考えてみてもらいたいと思います。






アルファベットの場合、左から右へと横書きで文章を書き進めて、縦書きでは書きません。かつて日本のマンガを海外向けに紹介する際には、裏表を反転させて文字の部分は翻訳してから吹き出しを含めてレイアウトし直す作業を経て印刷した形で出版されましたが、できるだけ原作通りに再現することが求められるようになってきて、現在では翻訳して出版する場合も版を裏返さずに右から左に読み進める形が主流になってきました(実物はほとんど読んでいませんが、吹き出しの形までも維持しようとしているでしょう)。これがアラビア語のように文章を右から左へ読み進める場合ならば進行方向が一致しますが、アルファベットではあからさまに読み順と逆方向になり、欧米のマンガ形式の作品に親しんだ読み手には特に違和感をもたらすことになります。
ではこれからのマンガは左から右へ向けて描くようにしたらいいんじゃないかと考える人もおそらくいるでしょう。実はそう考えて作られたマンガ雑誌は存在しています。サンリオが1970年代の末に海外展開を視野に入れて発行していた「リリカ」はその最も有名なものとして知られています。
サンリオはたしか「リリカ」を発行していたのと並行して抒情画のムックをいろいろ出していたかと思いますが(未確認)、表紙を描いていたのは高橋亮子という1970年代の少女漫画の全盛時代に一世を風靡したにもかかわらずなぜか現在不当なまでに忘れ去られている漫画家でした。高橋亮子の絵は少女漫画の絵としてはどこかしら和風の印象が強く、それゆえに抒情画の伝統と結びつけやすいところもあるのではないかとも思いますが、海外向けを意識して作られた雑誌とは言われていても、実際にどのような計画で進められていたのかなどの情報は伝わっておりません。
結局当時はマンガの海外進出は試みられずに終わり、左から右に読み進めるマンガはリリカの休刊後には定着しませんでした。それでは、今ならどうでしょうか。左から右に読み進めるように書けば欧米の読者がもしかしたら増えるかもしれませんが、増えるという確信にまでは至りません。これは私見ですが、日本の漫画が欧米の漫画の形式を日本向けにアレンジしていく過程で、文字を縦書きで書く前提があったことは日本独自の漫画表現の発達にとって少なからぬ影響があったと思います。なので欧米向けに翻訳したものについても漢字文化圏の痕跡を残すことに可能性を見たいと思います。このような形式の問題は内面描写に関する議論以前にもっと検討されていいと思っていますが、この場ではこれ以上論を進める余裕がありません。
ここでとりあえず一旦話を終わらせるために簡単にまとめると、日本の漫画には広義の文学作品の翻訳の問題に加えて、縦書きを再現できないというもうひとつの翻訳不能性が認められ、これを解決するいいアイデアを私は持ち合わせてはいません。しかし「翻訳不能」であることはマンガを美術的にとらえるうえで何らかの手がかりになると思います。
日本のマンガは世界的に流通しているさまざまな漫画表現のなかでは明らかに独自性と特異性を持ってはいるのです。それは、私は何度でも強調したいのですが、日本のマンガが十分に「異文化」であることにほかなりません。


愉快な鉄工所

愉快な鉄工所

『少女の友』中原淳一 昭和の付録 お宝セット

『少女の友』中原淳一 昭和の付録 お宝セット

以上は一応参考まで。

戦前のマンガは大城のぼるの諸作品などがまだ手に入るでしょう。のらくろの戦後に出された復刻版は古本屋で手に入るようですが、ここではもう一度『少女の友』で活躍した松本かつぢの「くるくるクルミちゃん」を紹介しておきましょう。松本かつぢは、直前のエントリに書いた『コドモノクニ』という出版史上でも非常に有名な児童向け絵雑誌を発行していた東京社という、現在は『婦人画報』を出している会社の前身にあたる出版社が出していた『少女画報』という雑誌で昭和の初めにマンガを描き始めていることを確認していますが、デビューは博文館の雑誌です。
後者は非常に値が張りますが、雑誌をまるごと復刻しているので一冊家にあるとやはりいいものです。かつぢは昭和前期の作品でほぼ戦後の手塚的なコマ構成にまで到達していましたが、吹き出しの枠は描かないままでした。もっと正確にいえば、コマ枠の外から声がするときにだけ吹き出し枠を描くという使い方をしていました。「くるくるクルミちゃん」で一度だけ吹き出し枠を全体的に使ってみて、(たしか後者の復刻号に載っているでしょうが松本かつぢの紹介本にも掲載されています)、その後きっぱりとやめています。

松本かつぢ----昭和の可愛い!をつくったイラストレーター (らんぷの本―mascot)

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